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2011年11月30日水曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 6⑪

6第二次ポエニ戦争⑪


1)スキピオ アフリカに上陸

アフリカに向かったスキピオはウティカ付近に上陸し、ヌミディア軍と合流した。

ウティカに軍事基地を建設するため包囲したが、抵抗に遭い冬を迎えた。

別の戦場のチュニスを占領しカルタゴの通信をかく乱した。







2)カルタゴ政府講和へ

カルタゴは極めて深刻な状況に陥り、ハンニバルの帰還を待たずにスキピオと講和を結んだ。

その内容は

・カルタゴはイタリア、ガリア、スペインから撤退してこれらの地域の利権を完全に放棄すること

・20隻をのぞくすべてのカルタゴ艦船をローマにひきわたすこと

・5000タレントの賠償金を支払うこと

・カルタゴの西方にマシニッサ王国を認め、東方ではリビアの先住部族の自治を認めること






結果、カルタゴはアフリカの一国になり、ローマの属国になることが予想された。

戦争は終結するかに思われた。



 ローマに比べて、カルタゴは腰抜けである。その国の発展の状況にもよると思うが、自国を守るために命懸けになる事を忘れてしまうと、瓦解するのは非常に早い。


しかし、豊かな国に平和な時期が長く続くと、軟弱になるのは否めない。


ギリシャのスパルタはそれを恐れ、決して贅沢な生活をしなかったらしい。贅沢ができないからでなく弱くなるのが恐ろしいから。






【おまけ】

大臣があげあしを取られるのは、本人の責任としても、局長クラスで、しかもオフレコの居酒屋での発言が、
あげあしを取られるとは、マスコミの取材も行くところまで行ったという感じがある。

基本的に、情報を流す方と、取材する方には長期間にわたる信頼感が存在することが当たり前であり、




こんな取材のやり方をしていると、情報がますます正確に流れなくなる恐れがある。

しかし、沖縄にとって、辺野古移設に反対するきっかけになったことは確かだ。

基地の問題はもう一度原点にもどって考え直すことになるのでは、


1)本当に沖縄は基地を必要としていないのか?

横須賀でさえ、地域の雇用を考えた場合、基地の存在感は大きい。どう考えるのか?

2)アメリカは本当に沖縄に基地が必要なのか?

中国の動きに対するけん制として、沖縄の地理的な環境は大きいと思うが、兵器の進歩で
防衛の方法も変化していると思うが、

2011年11月29日火曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 6⑩

6第二次ポエニ戦争⑩

1)ハシュドゥバル軍を撃破


スペインでスキピオの追撃をかわしたハシュドゥバル軍はついにイタリアに到達。

ハンニバル軍との合流を目指した。しかし、ローマはこの新しく現れたカルタゴ軍をメタウロの戦いで破り、ハシュドゥバルを殺害した。




この勝利により、ローマのイタリア半島における勝利をほぼ確実なものとした。


ローマの執政官クラディウスは、ハシュドゥバルの生首をハンニバルの陣地に石弓で投げつけた。




2)ハンニバルイタリアから撤退

前203年春、ついにイタリアにおける勝利の望みがなくなったハンニバルは、カルタゴ政府から本国を守るために帰国せよとの命令を受けとり、帰国した。




無敵の軍隊を敵国の領土の中枢部に15年間も維持してきたハンニバルであったが、その目的を達することができなかった。

その前年の前204年にはスキピオ率いるローマ軍3万がアフリカに向け出航していた。


ハンニバルはイタリアにおいて一度も負けることなく、撤退せざるを得なかった。世界史の中でも稀有な運命の将軍といえるだろう。


「ベンチがアホやから野球がでけへん」といった人が昔いたが、


ハンニバルに言わせれば「本国がアホやから戦がでけへん」というところだろう。


ローマは現実を直視して、この困難を乗り切った。


一度負け始めるとカルタゴの脆さが露呈していく


【おまけ】

大学ラグビーリーグ戦グループで、東海大を破り、流通経済大学が初優勝をはたした。

久々の縦の攻撃中心の本格的フォワード(昔の明治を彷彿させる)チームである。




大学選手権でどこまでいけるか?

勢いに乗れば優勝もありうる。

2011年11月28日月曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 6⑨

6第二次ポエニ戦争⑨

1)カタルヘーナの攻撃

スキピオは、主力部隊を率いて迅速に南方へと進軍し、スペインのカタルヘーナを攻撃した。



海上のローマ艦隊と同時にカタルヘーナに到着した。

このカタルヘーナの陥落後、スキピオはスペイン戦線における主導権を握った。おびただしい数の戦利品、金、補給品に加えて、

スキピオは現地の銀鉱山を支配下に置き、その結果、カルタゴの収入源を徹底的に断ち切った。その年の残りの期間、スキピオは模範軍の編成に専念し、兵士たちに新しい戦術や新兵器の使用法を習熟させた。




2)カルタゴスペイン帝国 事実上の滅亡

前208年スキピオハ、バエティカに対する攻撃を開始した。そして大勝利を収めた。



スペインにおけるカルタゴ帝国は滅亡した。

3)アフリカへ


次に、スキピオはアフリカに渡り、将来へのアフリカ進攻への布石を打った。ハンニバルにイタリア半島における軍事活動が崩壊する日も遠からず到来するように思われた。



いよいよ、ローマの反撃が本格化した。
しかし、個人的にはハンニバルを応援してしまいたくなる。
やはり日本人は「滅びの美学」に共感してしまうのだろうか?


【おまけ】

大阪の選挙結果は予想通り、橋下氏の大勝に終わった。




大阪都構想が正しいかどうかは問題ではないと思う。

具体的に構想を持ち、当選したらその構想を実現するだけの行動力を備えているかということが大切な要素なのだと思う。

選挙は4年に一度ある、まちがいなら修正すればいい。

一番悪いのは、正しい、間違っているなどの不毛な論争を繰り返し何もしない事だと思う。

間違ったことを実行すれば少なくとも「何が間違いかが分かる」 不毛な議論を来る返す時間はもったいない。

これからの政治家にはこのタイプになってもらいたい。

もちろん経営者も。

2011年11月26日土曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 6⑧

6第二次ポエニ戦争⑧


1)支援を受けられないハンニバル


カルタゴは各地方のローマの敵対勢力によってローマを包囲しようと試みた。しかしながら、ハンニバルはそれほど大きな支援を受けることなくイタリアに留まらざるを得なかった。





そしてそのことが、ハンニバルの敗北を確実なものにした。


2)転換点

前209年、第二次ポエニ戦争は転換期を迎えることになる。

二人の司令官が、ハンニバルをイタリア半島に閉じ込めて追い詰めてた。



ターラントの町はローマに略奪された。

第二次ポエニ戦争の戦況が変化しつつあった。




3)ローマの英断 スキピオを司令官に

ローマは前211年の後半若干25歳のスキピオを最高司令官に任命するという異例の議決を行った。




スキピオは直ちに、カルターヘナのカルタゴ軍の駐屯地に攻撃をしかけた。


ここまで、読み込んできても、ローマとカルタゴは軍事的な実力において互角であるといえる。


では最終的に勝敗をわけた要因はなんだったか?


1)ローマの人々のほとんどが、現実を理解しているのに対してカルタゴが現実を見ていないこと


2)ローマは市民が兵士になっているので、戦争が自分のことでありそれが現実の把握に直結していること


3)どこまでもあきらめない、何があっても現実を直視し、それに対して冷静に対応するローマのしたたかさ。


勝てるチャンスはハンニバルにあったはずだ、本国が本気で現状を理解していれば。





【おまけ】

現実を直視することは大切だが、これがなかなかできることではない。

第一勇気のいることだし、人間の脳みそはその機能面からでも、「本人にとって見たい現実しか理解しない」ようだ。




マスコミにしても、皆がそうでありたいと思っている事しか報道しない。

しかし、一日でも早く現実に気が付き、対応することが大切だと思う。

2011年11月25日金曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 6⑦

6第二次ポエニ戦争⑦

1)スペインに軍事基地確保

コルネリウスはカルタゴの補給物資と増援軍がイタリアのハンニバルに送られるのを阻止しただけでなく、スペインの地にローマ群のための軍事基地を確保することをに成功を収めた。

カルタゴ軍より少ない艦船しか持っていないコルネリウスであったが、戦いを挑む事を決断した。




制海権を握る事が重要であると理解していた。




2)エブロ川での交戦

ローマ艦隊はエブロ川の河口の沖合でカルタゴ艦隊と交戦して、これを撃破した。この勝利によって

ローマ軍はエブロ川を安全にわたることができるようになり、
なによりも、イタリアにいるハンニバルの成功の希望を打ち砕き、第二次ポエニ戦争の全体の帰趨に影響を与えた。




3)孤立するハンニバル

これ以降、カルタゴは海上におけるいかなる大規模な軍事作戦をも断念した。

その結果、ハンニバルはイタリア半島から取り残され、ローマが引き続き制海権を握るようになった。





結局のところ、カルタゴ軍はハンニバルに率いられた軍団以外は弱かったということになる。
つまり、ローマは絶対に勝てないハンニバルとの決戦を極力避け、
それ以外の戦場では戦いを挑み、ハンニバルを少しずつ追い詰めていくことになる。


勝てないところでは勝負せず、持久戦に持ち込むということは最終的な勝利を収めるために必要なことなのかもしれない。


【おまけ】

株が下がってきて、世界中が元気がない。このままずるずるといっていまうのか?
何か方法はないのか?

今まで、頑張りすぎて休む時期に入ったのか?本当に先が読めない時代になってきた。

こんなとき、エコノミストは大抵弱気の予想を発表することになる。




予想は大抵はずれるので、「来年はきっといい年になるだろう」




という希望を持って淡々とやっていくしかない。

2011年11月24日木曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 6⑥

6 第二次ポエニ戦争 ⑥

1)カンネの戦い

カルタゴ軍は見事な戦術的機動を用いて進軍中のローマを包囲し、これを殲滅させた。

カンネにおける敗北によって、イタリア人が抱いていたローマの最終的な勝利に対する自信が大きく揺らいだ。




いくつかの都市がハンニバルに忠誠を誓った。
しかし依然としてローマに忠誠を示す都市も多く、結果的にファビウスの消耗戦略の有効性が証明された結果となった。





2)ハンニバルの苦悩

ハンニバルはローマ連合の切り崩しのために粘り強く工作を続行せざるを得なかった。
制海権を握られていたハンニバルは増援軍を派遣すること、物資を運ぶことができずなかった。

ここでハンニバルは新しい戦略を取る

・作戦地域を大幅に拡大 ローマに対する包囲網の輪を大きくする

スペイン戦線
ガリア人の脅威
サルディニア島
シチリア島の都市へカルタゴへの忠誠を要請




しかしながら、ローマは持前のマンパワーで戦線の拡大に対応した。

ローマのスキピオは弟のコルネリウスをスペインに派遣、補給物資の輸送を阻止することを考えた。



ローマはカンネの会戦で大敗北を喫する、通常の歴史ならこの戦いで一気にカルタゴへ流れが傾くところだが、


そうならなかったのは、この戦いが、単純にローマとカルタゴの間の両国で戦われた戦いであるというよりも、


ローマ的な考え方とそうでない考え方の戦いであったということが言えるのかもしれない。



【おまけ】

ラグビー早慶戦分析

昨日の早慶ラグビーは当初の予想を裏切り、早稲田の大勝となった。

それは何故か。




1)実力的に早稲田の方が上であったにも関わらず、慶応が対等の戦いを挑んでしまったこと

2)フォワードでプレッシャーがかからず生きたボールがバックスのラインに供給されれば。早稲田の展開力、決定力は大学ラグビーにおいてトップクラスだったこと。

3)全体として、慶応の選手のパワー不足、体格の不足が否めないこと。

4)早稲田のバックスにスタンドオフの一年生、復帰したフルバックなどのエース級がそろっているのに対して、慶応にはエース級がいない事


個人的には、慶応は連続攻撃を継続することが、勝利への近道であったと思っている。
連続攻撃(キックをしない)戦いの練習のみを積み重ねることで、僅差のまま時間を消耗し、ペナルティゴールもしくは、ゴール前のフォワードの押し込みで得点を重ね、残り5分の勝負に持ちこむこと。であったのではないか?

慶応の監督の才能に多少疑問を感じた。辛口でいえば高校ラグビーのようだった。

次回12月4日の早明の戦いも同様の戦いになるに違いない。

体格的に勝る明治が、連続攻撃で早稲田の攻撃の時間を短くすることができれば、明治に勝機があるだろう。

逆に早稲田の攻撃が有効に機能(生きたボールが次々とスタンドオフに供給)されれば、早稲田のペースになる。

前半でどのような戦いになるか今から楽しみである。

2011年11月22日火曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 6⑤

6第二次ポエニ戦争⑤

1)独裁官ファビウスを任命

トラジメーノ湖の戦いの大敗北がローマに申告な危機を引き起こしたので、ローマは過去30年のあいだ避けていた、独裁官の任命をした。





ファビウスを任命した。

同時にファビウスの戦略に異を唱える人物を副官に任命した。



2)ファビウスの戦略


ファビウスの戦略とは

「ハンニバル軍を執拗に付け回しながら小競り合いをしつつ、
どのような犠牲を払っても大会戦を回避する」というもの





会戦に持ち込むことのできないハンニバルはカンパーニャ地方へと進軍した。

ファビウスは後を追うが、同盟国の町がカルタゴ軍に蹂躙されるのを傍観するだけだった。

しかしカンパーニャ地方ではハンニバルに城門を開く町はなく、アペニン山脈を越えブーリア地方にもどった。




3)我慢できずに決戦へ


翌年の前216年、

ハンニバルがカンネーの食料貯蔵庫を奪ったというニュースが届くと、ローマはもはや正面からハンニバルと対抗せざるを得なくなった。




ファビウスの副官はファビウスの作戦司令を無視してハンニバルとの一戦に踏み切った。


持久作戦はなかなか指示を得にくいが、ローマはファビウスを独裁官として持久作戦を実行する。
したたかであり現実的である。


しかししびれを切らす人間も出てくる。


まだハンニバルの本当の実力を理解していない。現実をみることが重要だ。


【おまけ】

スマートフォンが流行して、一つの機種でなんでもできる時代になり、それが一つのトレンドを形成しているが、

自分の場合その流れに完全に逆行している。

スマートフォンをやめ

 

1)通話用の携帯電話

2)音楽再生用のMP3プレーヤー

3)録音用のICレコーダー

4)撮影用のカメラという具合だ

さらにノートパソコンを大き目の鞄に入れて持ち歩いている。

理由としては、

スマートフォンが

1)重い 

2)操作は実際に押した感触のあるボタンの方がストレスが少ない

3)それぞれの機種の方が機能が高い

4)それぞれの機種の充電時間が違う

などが主な理由だ。さて来年はどのように考えが変わるか?

※アイポッドタッチからも卒業する可能性がある。

2011年11月21日月曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 6④

6第二次ポエニ戦争 ④

1)ハンニバル動く

前217年5月、山道の雪が解けると、ハンニバルは野営地を後にしてコリナ峠の地点でアペニン山脈を越えた。

ハンニバルは進軍の途中、自分の軍の側面を故意にさらし、ローマ軍に攻撃を仕掛けるよう誘導した。

突然、ハンニバルは、ローマへ向かうルートから外れ、トラジメーノ湖の北岸に沿いながらペルージャに向けて東に進軍を開始した。







2)ハンニバルの戦略

トラメジーノ湖に続く道は、狭い道が続いていた。

ハンニバルは、高台に軍を配置してローマ軍を待ち伏せ攻撃する態勢をとった。

ローマ軍は何も知らずに追跡、霧の濃い明け方、狭い道を行軍していたところ、ハンニバル軍が猛然と高台を下って戦闘が始まり、その後、二時間、両軍の間で戦闘が続いた。

ローマの司令官は戦士、戦場から離脱した6000人の兵士も帰掃された。

ローマ軍の完全な敗北であった。


ローマの凄いところは、これだけの敗北でもパニックに陥らずに的確に次の手を打ってくるところだと思う。


直接的な戦闘に勝てなくても、ほかに生きる道を見つけるというのは本当にたくましい。






【おまけ】

少し、古い話題になってしまうが、岩崎良美が結婚したそうだ。


その生き方には正直、あこがれを抱いてしまう。

岩崎良美は、姉のひろみの妹としてデビューしたのだが、これとって代表的な曲もなくそこそこにしか売れなかったのだが、

たった一回のラッキーパンチそう「タッチ」の主題歌を歌うというチャンスに恵まれたために。

そんなに必死にならなくても。芸能界で生き残ることができた。

戦略的にいえば理想的な戦いかたと言える。



唯一無二で、今後何十年も色あせることない「キラーアイテム」=「戦略的ポイント」を手に入れることがこれほど重要なことだとは。的確に示すよい例だと思う。

2011年11月19日土曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 6③

6第二次ポエニ戦争③


1)ハンニバル進軍

前218年の6月初旬、ハンニバルはエブロ川を越え、8月半ばまでにはローヌ川に達した。
彼の行く手をはばむローマ軍はいなかった。



ガリア人系のタウリニ族の主な村落を陥落させた後に、ハンニバルは、ポイイ族とインスプレス族の鎮圧のために転用されていたローマ軍が、今やハンニバル軍を追尾できる態勢にあることに気づいた。

2)初の本格的勝利

ハンニバルは複雑な機動作戦を次々と実施し、12月の厳冬の非に、ピアチェンツァの南方においてとれっぴあの戦いが行われた。




結局、ハンニバルはローマ群の3分の2を殲滅させて、第二次ポエニ戦争の戦闘で初めて真の勝利を収めた。


3)どこを守るのか

その後ローマ軍は、イタリア北部の平原を捨て去り、中央部を防衛することを決断する。

なぜなら、イタリア北部の平原がハンニバルの騎兵隊とその同盟軍であるガリア兵に極めて有利な地形であることが判明したのである。




しかし、ローマ軍は、ハンニバルがアペニン山脈のどの地点を超えるのかという点について皆目検討がつかなかった。


ここにおいても、ローマは淡々と現実に対応するあまり精神的にパニックに陥るような人たちではないようだ。


正直、どこから攻めてくるかわからないしかも相当の強敵が迫ってきていれば一定のパニックになってもおかしくないが、その辺がローマの強さなのだろう。


主導権を握られても動揺しないことが重要だ。




【おまけ】

TPPの交渉とは、結局何なのだろうか?

歴史の必然なのか?

アメリカの国益のための要求なのか?




ローマが危機に対応したように、現実を見極めてしたたかに対応する必要がある。

今までの世の中よりこれからの国家運営の方がずっと難しいのだから。

2011年11月18日金曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 6②

6 第二次ポエニ戦争 ②


1)北イタリアに向かって

ハンニバルは、スペインを拠点に戦うよりも、むしろ自軍の通信・交信を自ら断ち切って野営しながら北イタリアにむかって隠密に行動し、そこに軍事拠点を作ることを決心した。このハンニバルの構想は大胆かつ危険な計画であったが、結局のところ勝ち目のなさそうなきわどい代物であった。



2)もしスペインで戦っていれば

歴史の後知恵を借りれば、もしハンニバルがスペインで防衛戦略を採用し、彼の卓越した戦術的な天才を屈指してスペインに送られてくるローマ群を撃退したならば、ハンイバルはイタリア進攻よりもさらに重要な戦果を上げたかもしれない。


3)アルプス越え

しかし、ローマとの消耗戦に敗れたともいえる第一次ポエニ戦争の教訓に鑑みれば、血気にはやるカルタゴの司令官がそのような消極的な戦略を採用する可能性は低かった。



こうして、ハンニバルは四万人の軍隊を率いてスペインを進発した。結局、アルプスを超えて苦労を重ねながらイタリアに到着できた者は、わずか二万6000人に過ぎなかった。


ハンニバルが、スペインで戦っていたら違う結果になったかもしれない。しかし、ハンニバルが現代でも、最も優秀な戦略家の一人として


輝かしい評価を受けているのは、アルプスを超えたからに違いない。


スペインで戦っていたら伝説にはなっていない


ヒーローはいつでも冒険をして未知の世界に踏み込む人なのだと思う。




【おまけ】

イタリアに続いてスペインまで調子がおかしくなってきた。

今の時代はどのように考えればいいのか?

個人的には世界は年々不安定になってきているように感じる。




これだけ文明が発展したのに、毎日 自分の努力ではどうしようもない

事で不安な日々を送っているとは実に不可解だ!!

日本はヨーロッパの国に起きている現状を教訓に

本当にどうしようもなくなる前に改革を進めるべきだと思うが

長年積み重なった利権の構造はやはり破綻するまで続くのか?

2011年11月17日木曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 6①

6第二次ポエニ戦争①

1)ローマの展望

ローマは、第二次ポエニ戦争が第一次ポエニ戦争と同じような戦略的な経緯をたどり、今度はスペインが第一次ポエニ戦争のときのシチリア島の役割を演じるに違いないと確信していたと思われる。





ローマの政治戦略が、イタリア半島を攻撃できる能力を持つすべての根拠地をカルタゴから奪い取ることにあったことは明らかであった。

ローマはイタリアに通じる海上ルートを支配していたため、カルタゴが海上からイタリアを攻撃することは大きな危険を伴った。

そのため、ローマは戦争が戦われる場所を自由に選ぶことができると信じていた。そして陸上での決戦を選択した。




2)スペインとアフリカを戦場に決定


ローマの元老院は、戦争をスペインとアフリカに限定することを目指した。




しかし、アフリカに派遣した兵力は第一次ポエニ戦争で明らかになったように、進攻作戦を実行するには不十分だったためアフリカ内部の部族をそそのかし、彼らに支援を与えて、カルタゴに反旗を翻させるとう方策をとった。





3)ハンニバルの賭け

一方ハンニバルは、イタリアを陸上から攻撃することを決断した。



ハンニバルが目指したのは、ローマの海軍力と陸軍力の真の源泉であるローマの重心を破壊することにあった。

ハンニバルは、ラテン系の諸国やイタリア諸国との間に築かれた同盟のネットワークこそが、ーマの重心でありここを破壊することを目指した。

ハンニバルがその目的を達するためには、同盟諸国のローマへの忠誠心を失わせるか、ローマ軍を会戦で撃滅させるかという二つの方法しか残されていなかった。



第二次ポエニ戦争が開戦したとき、ローマの有利は誰の目にも明らかであったに違いない。


この状況をひっくり返すために、ハンニバルは大きな賭けに出ることになる。


この状況で、ハンニバルという天才が登場したことが、歴史を大きく転換することになる。本当に面白い!!


【おまけ】

フェイスブックをはじめて、半年ほどだが、少しずつ、高校の仲間のネットワークが形成されつつある。

いままではあまり交流がなかった他のクラスの人間とも、緩い、ゆっくりとした交流が始まっている。

少しづつだが、このペースで増えていけばきっと面白いことになるのではと期待している。

あまり、余計なことを書きこまずに粘り強く 「いいね!!」を押していこうと思う。





並行してグーグル+もやっている。

昨日初めて知ったのだが、グーグル+は、友達承認はいらないらしい、そういう意味でツイッターに近い。これはこれでつづけていこうと思う。

SNSの来年の展開はどうなるか楽しみだ!!

2011年11月16日水曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 5③

5勝利の戦果、敗北の代償③



1)カルタゴスペインへ拡大

ローマがアドリア海を越えてイリリア族の凄まじい反乱を鎮圧していたころ、カルタゴはスペインに対する支配を拡大していた。

ハミルカル・バルカの後継者のハシュドゥバルは、巧妙な軍事作戦を速やかに遂行しながら、エブロ川にむけて北方へと進軍した。






2)協定

前226年、ガリア人を憂慮したローマはハシュドゥバルと協定を結んだ。
この協定にはローマがエブロ川以南のハシュドゥバルの征服地に対して干渉しないという保証も含まれていた。




前221年にハシュドゥバルが暗殺された後、ハミルカル・バルカの息子のハンニバルが、ハシュドゥバルの後を継いだ

ハンニバルは拡張戦略を一新し、エブロ川の南にあるサグントに対し、攻撃、包囲、略奪をおこなった。このことが、第二次ポエニ戦争の近因であった。

サグントはエブロ川の南側にあるとはいえ協定により取り決められた境界線であった。





3)最後通牒


ローマはザグントの住民のローマに対する忠節を受け入れていた。ローマはハンニバルにザグントの包囲を解くよう、最後通牒をおこなった。

もしここでカルタゴが撤退すれば、スペインの都市が、雪崩を打ってローマに忠誠を誓うことは間違いなかった。




カルタゴはローマと平和裏に共存できない事を理解した。カルタゴ人にとって、ローマの野心は限界がないように映った。




ローマが仕掛けたのか、カルタゴが仕掛けたのかははっきりしないが、結局雌雄を決しなればならない運命であったのではないか?


この戦いで、ローマとカルタゴは第二次ポエニ戦争で死闘を演じる。


このことが、ローマをさらに強い国へと成長させるのだが、


単純に「成長するにはライバルが必要だ」、などときれいごとでは片づけられない



【おまけ】

2,3日前から右足の親指の付け根が痛い。

通風なのかと、ウイキベディアを調べてみたが、書いてあるような激痛とはいえない。

単なる簡単な捻挫であればいいが。



しかし、そろそろ暴飲暴食を控えないといけないのかと思ってしまった。

食べないと元気が出ないのだが・・・