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2011年11月9日水曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 4⑥

第一次ポエニ戦争⑥

1)ハミルカル・バルカの軍事行動

膠着状態が続いていたが、カルタゴにハミルカル・バルカという精力的な指導者が現れたことで状況が変わった。




前247年、ハミルカルバルカハ、ローマが海洋戦略を放棄したことに付け込み、イタリア南部の沿岸地方に襲撃を加えた。

翌年ドレパヌムとリリバエウムの町の包囲中のローマ軍の背後を襲った。

結局3年もの長い期間にわたってローマ群を追い詰めて逃がさなかった。





2)海上で勝利するしかない

ハミカルバルカの軍事活動が長期間に及ぶにつれて、ローマの元老院は、海上で勝利を得る事だけが戦争を集結させる唯一の方法であるとの確信を強めた

勝利後に償還することを約束した戦時国債を発行することで、ようやく200隻の戦艦と輸送船からなる艦隊の建築に必要な財源を確保した。






3)ドレバヌムの包囲


前242年夏、ローマ艦隊が、カルタゴ艦隊を撃滅する任務を帯びて再度、ドレバヌムに向かったがカルタゴ艦隊はそこにはいなかった。

カルタゴはアフリカで進行中の戦いのために、船員をすでに移動させていたのである。



ローマのドルパヌムに対する攻撃は失敗に終わったが、包囲により、ドルパヌムでは食料が不足していた。




4)カルタゴの反撃~講和


その後、前241年3月までに、カルタゴは170隻~200隻の艦隊を作り上げた。

ねらい  シチリア島への上陸
ハミルカル・バルカと彼の兵士を艦船にのせる
その後、海上でローマ艦隊に決戦をいどむ。






しかし、実際は

シチリア島上陸前にローマ艦隊と遭遇 ⇒カルタゴ艦隊は敗北した


ローマは50隻のカルタゴ艦隊を撃沈させ、さらに70隻以上の艦船を捕獲した。カルタゴによるさらなる反撃は不可能であった。

ついにカルタゴ政府はローマとの講和を交渉するために必要な全権をハミルカル・バルカに与えた



毎回同じ指摘だが、カルタゴ側の自滅としか言いようがない。


両国とも、ギリギリのところまで追いつめられていたことは確かだ、


しかし、肝心なところで カルタゴは心が折れてしまい、


ローマはくじけなかった。


この差はなんなのか? 市民の国家への参加意識の差だろうか?


戦いは結局 あきらめたほうが負けということだと思う。



【おまけ】

オリンパスが粉飾決算で上場廃止に追い込まれようとしている。

まさか、その原因が20年近く前のバブルとその崩壊にあるとは・・・




まだバブル期の負の遺産を抱えている企業があるということか

そのあまりにも長期にわたる影響に

やはり嘘はつくべきではないとつくづく思う

2011年11月8日火曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 4⑤

第一次ポエニ戦争⑤

1)膠着状態

前252年 、ローマのリリバリウムを占領する試み何度も失敗に終わった。

カルタゴは、ヌミディア問題にあまりにも関心を集中させていたので、ローマの災難(悪天候による損害)につけ込むことができなかった。

この小康状態に続いて、二年間の活発な軍事活動の期間が再び始まった。






2)リリバリウム海上封鎖


ローマ艦隊は再びリリバリウムの海上封鎖を試みた。



しかし、リリバリウムを陥落させることは不可能であることが明らかになった。

ローマはリリバリウムの封鎖を試みたが、カルタゴは海上封鎖を何度も突破し、ローマの工場用の保塁を焼き張らうことに成功することもあった。

ローマがリリバリウムのカルタゴ軍を一掃できる簡単な方法は、存在しないように思われた。




3)第三の戦略⇒敗北⇒膠着状態


海上封鎖が効果がないことを察したローマは前249年、第三の戦略を採用した。

第一の戦略 戦線をアフリカ大陸に拡大する⇒成功せず

第二の戦略 シチリア島の主要な都市からカルタゴを一掃する⇒成功せず

第三の戦略 シチリア島の海域に進出して、カルタゴ艦隊を撃滅する。

⇒ローマの司令官が計画を不適切に実行したために海戦で敗北




結果として 戦争開始当時 ローマは240隻のガレー船を率いていたが⇒ 生き残ったのはわずか20隻

ローマはリリバリウムの海上封鎖を続行することが不可能になった。

それでも

もう一つのカルタゴ支配の都市 ドレパヌムへの道を遮断することに成功した

⇒そのことで敗北を膠着状態に変えた

ローマは海軍を新たに建設することは到底できない状況であったが、講和を申し出るという考えはまったくなかった。


この膠着状態は カルタゴに精力的な指導者が現れることで終止符が打たれる つづく


ローマは最初から適切に戦うことができたわけではなかった、何度も試行錯誤を繰り返し、失敗し、それでもあきらめず


たんたんと、状況に応じて努力したように思う。


カルタゴは内部に抱える問題のためにローマに対してとどめをさすことができなかったのだろう。


あきらめない事が大切という教訓だと思う。


【おまけ】

羽田空港から海外へ行く人が増えているらしい。




考えてみれば当然だろう。

あまり休みを長期間取れない日本人にとっては成田に行くまでの時間ももったいない。

さらに羽田なら深夜出発の便もある。

地味ではあるが、海外への旅行や移動が新しい転機を迎えた。

アジアの都市には、日帰りも可能になる。

週末グアムやサイパンに行くこともできる。

2011年11月7日月曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 4④

1)海上での勝利


前256年の夏、新しく編成されたローマ艦隊がシリチア島の東岸沿岸を回航していたとき、エクノモス岬の沖でカルタゴ艦隊と遭遇したが、ローマはこれを撃破して、海上で大勝利を収めた。

その結果、ローマはアフリカ本土を直接攻撃することが可能になり、シチリア島からカルタゴの影響力を排除することにも成功した。







2)アフリカ進攻作戦

ローマはカルタゴ市のわずか東方にあるクルペアとう土地にアフリカ本土としては初めて上陸した。
カルタゴはシチリア島の軍隊を呼び戻し、本国で新しく兵士を集めた。

ローマの司令官レグルスは序盤こそ勝利を収めたが結局大敗北を喫した

ローマ艦隊が救出にむかい、その間カルタゴ艦隊に2度目の勝利を収めるが帰還の途中嵐に遭い、ローマのアフリカ進攻作戦は大きな失敗に終わった。



3)方針転換

戦争をアフリカに拡大することに失敗したローマはカルタゴに軍事基地を提供しているシチリアの諸都市からカルタゴを追い出すため、一連の軍事作戦を続けて実行することを決定した。






4)カルタゴの弱体化

新たな攻勢を仕掛けてきたローマ軍に対し、必要な援助をシチリア島の友好都市に対してほとんど与えることができなかった。

理由1  カルタゴ兵のほとんどがレグルスの軍に対抗するためアフリカに呼び戻されていた

理由2  ヌミディアの反乱の鎮圧が必要だった。

アグリジェントを急襲して、奪還したが、町を守り通すことができないと判断、街に火をつけて退却した。


結果) シチリアの諸都市のほとんどがカルタゴから離れていった


戦争の勝敗を決めたのは、カルタゴ自身の問題ではなかったか?ここまで読み進めてきて、戦闘そのものは五分であるが、


カルタゴが内部に問題を抱えていることがわかる。


その一方、ローマとしては、効果的な手をたんたんと打ってきているように感じる。



【おまけ】

今、TPPが問題になっている。参加すべきかすべきではないのか?



どちらに賛成するか自分としても意見をまとめかねている。

参加することが、国益になるのかならないのか。

大きな視点から見てみる必要があると思う。

長期的、歴史的な観点から、世界が一つになろうとしており、TPPに参加することがその流れの一つの段階であるなら、

その流れに逆らうことはできないだろう。

仮にここで参加しなくても、結局はそういう方向に流れていくのではないか?

2011年11月5日土曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 4③

4 第一次ポエニ戦役④

1)宣戦布告

カルタゴとシラクサは新たなる同盟を結んだ。ローマを追い出すためである。

その結果、強大なカルタゴ軍がシチリア島の南西岸にあるアグリジェントに駐留し、そこから進軍してメッシナーの郊外に野営した。




シラクサもメッシーナにむけて進軍

ローマの新解放軍はいつの間にか包囲されていた。

同時に海上ではカルタゴ艦隊がメッシーナ海峡を封鎖、ローマの後続部隊の上陸を阻止した。

ローマは闇にまぎれて後続部隊をシチリア島に送りこむ。ローマはカルタゴとシラクサに対し「メッシーナの包囲を解くよう要求」

この要求が拒否されたために、ローマは交戦状態に入ったことを宣言、第一次ポエニ戦争がはじまった。





2)アグリジェントの町攻撃

前262年の春ローマはアグリジェントにある敵の軍事基地を攻撃。7か月に及ぶ長期の包囲戦の末、カルタゴの司令官は脱出。

ローマは他のシチリアの他の都市に対する見せしめのため住民を奴隷として売り渡し、略奪するなど残虐行為を行った







3)制海権

ローマはカルタゴをシチリアから追い出す決意をした。

問題点はカルタゴが完全に制海権を握っているということ

一部の内陸都市はローマの側に加わったが、協力なシチリアの沿岸都市はカルタゴと通称し、カルタゴに忠誠を示していた。

戦争の帰趨を決するためには制海権を握る事が必要だった。





4)選択肢

カルタゴ艦隊はイタリア本土の沿岸都市の略奪を始めた




ローマは二つの戦略上の選択肢のいづれかを選択しなければならなかった。

1)カルタゴを支援するすべての都市からカルタゴを追い出すためシチリアの軍事作戦を遂行する

2)戦争をエスカレートさせて、アフリカに攻撃を仕掛けてカルタゴ本国を脅かすことで、交戦状態を永久に終わらせる

いづれの選択肢もローマが海上においてカルタゴに挑戦することを意味した。








ローマはカルタゴの戦争によりやむを得ず次のステップに進むことになる。


つまりは、陸の国から海上の国に向けてのステップである。


挑戦しなければ、現状維持も難しい、結局進み続けるしかないのだと思う。


たとえそれが困難な道であったとしても。


極端な例だが、日本の会社が海外に進出していくのも同じようなことだと思う。


じっとしているか、飛び出すか。どちらも危険だが、進む方が若干安全だと思う




【おまけ】

株価が不安定で先行きが読めない。欧州の不安も収まるんだか収まらないんだか?




この不安定感は何の兆候なのだろうか?

本格的に欧米の時代からアジアの時代への転換点か?

2011年11月4日金曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 4②

4 第一次ポエニ戦争②

1)ピュロスの進攻

前279年エベイロス王ピュロスがイタリアに進攻した。




この時のローマとカルタゴの協定

1、カルタゴはイタリア半島の問題に干渉せず

2、ローマはサルディニア島の問題に干渉しない

こうすることで

ローマがピュロスをイタリア半島で食い止め、シチリア島への進攻を防ぐことが期待された。

交換条件

⇒ カルタゴはローマに対して海上支援を提供する しかし失敗に終わり

ピュロスはシチリア島に進攻した。 協定の目的は達成されなかった。

前270年代終わり ピュロスは何も手に入れられずシチリア島を去った。

その時シチリア島について「カルタゴとローマの人々に何と立派な相撲場を遣わしてやることになったものだ」  と語ったと伝えられる


2)戦いへの経緯

前289年カルタゴはシチリア島に進攻を始めた。カルタゴはシラクサ艦隊を撃退、領地を回復し、シチリア島のギリシャ系諸都市を征服。




シチリアの傭兵であったアルメィニ軍が仲間を裏切りメッシーナを占領、それに対しシラクサ軍がメッシーナを逆に包囲した。

⇒ このことで、カルタゴはシチリア島への干渉を開始した

シラクサ軍を追い払うことに成功したカルタゴに対し、マルメテイニ人はカルタゴを排除したいと考え

⇒ ローマと同盟を結ぶことになる。

結果的にローマはカルタゴ、シラクサ両軍と戦う覚悟をする


ローマが戦いを覚悟した理由

1、イタリア半島を取り巻くすべての島々がカルタゴの支配下に入る危険を感じた

2、ローマの「友邦の輪」のもっとも脆弱な南イタリアを攻撃するため

の基地をカルタゴに与えることになる危険









3)開戦

前246年、ローマ先遣隊がシチリア島に到着、カルタゴの守備隊長を強引に立ち退かせた。

ここにローマとカルタゴの間の戦争 第一次ポエニ戦争ははじまる。



隣合う、2大勢力は必ずどこかで、争い雌雄を決しなければならない運命にあるような気がする。


互いに、戦争は避けていても、利害の衝突が緊張感を増幅させ、徐々に戦いへの準備を始め、それが時間の経過と共に、より現実的な戦争へと導くのだと思う。


又、どこかでローマ人の決断力といだぎよさを感じる「避けることができない」ことは「あえて避けることをしない」




【おまけ】

昨日、高校ラグビー神奈川予選の準々決勝を見に行った。

県立横須賀は、惜しくも 東海大相模に 10対14で敗れた。




互いに、譲らぬ好試合だった。

東海大の決断の速さが、勝負を決めたように思う。

大学受験の心配のいらない付属校と、

負けた瞬間に受験生になる公立高の心の持ち方の違いが影響したのだろうか?

2011年11月2日水曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 4①

4 第一次ポエニ戦争 ①


カルタゴの脅威の大きさに対するローマの認識が、概して、第一次ポエニ戦争におけるローマの戦略を形成した。




西地中海におけるこの二大勢力の間には、ローマがイタリア半島で足場を固めた時期のはるか以前から接触があった。


前6世紀の末に共和制に移行した直後のローマとカルタゴは協定を締結した。

その協定は完全にカルタゴに有利な内容であった。

1)チェニス湾の南方と西方の航行の禁止

2)カルタゴの使者の立ち合いなしにリビアやサレディニアとの間に協定を結ばない事

3)カルタゴはラツィオ地方のいくつかの街の攻撃を差し控えた

この時代、カルタゴは、イタリア中部地方に影響を及ぼそうと試みていた





前348年に協定を改定、カルタゴは内容を大幅に硬化させた。

1)イタリア商人は、サルディニア、リビア、そしてチェニス湾からスペインのマスティアにいたる西地中海から締め出された

2)カルタゴは西地中海をカルタゴの湖に変えた







カルタゴは船舶の建造と兵士の徴集に必要な財源を関税により賄っていた

ローマと違い海外で従軍するカルタゴ兵は傭兵で

このことで 1)武威に無関心な国民性が形成

2)動員できる兵員数が財政力により制限された








地中海において当初カルタゴが圧倒的に優勢だったが、ローマが力をつけるにしたがって徐々に緊張が高まった。


ローマとカルタゴの大きな違いは、ローマが市民兵であったのに対し、カルタゴが傭兵であったといううことである。


この違いが後に大きな違いとなってくる。








【おまけ】

島田紳介が芸能界を引退し、その影響が心配されていたが、

その心配はすっかり杞憂に終わったと思う。

若手の成長は著しく、空いたポジションに次々と新しい人が入ってきてすぐに埋めた。




そんな中で、特に目立っているのが、フットボールアワー後藤だ。

最近は番組の中心になってきている。

若手が成長するためには、大御所が引退することが必要なのかもしれない。

2011年11月1日火曜日

戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争 3 ②

3 同盟の構造②

ハンニバルは、こうしたローマ連合の同盟構造とその加盟国によってローマにもたらされる強大な軍事力が、敵側の主力な力の源泉であると考えた。



第二次ポエニ戦争を遂行するにあたり、ハンニバルの戦略の狙いは、結局、敵側の力の源泉であるローマ連合の加盟国を攻撃し、その同盟ネットワークを解体することによって敵側の軍事力殺ぐことにあった。

当初ハンニバルの戦略が成功を収めたのは


1)戦場での大規模な会戦を避けながら執拗に小規模な攻撃を仕掛けることで敵の戦意をそぐことに主眼を置いたローマの対抗戦略では、

必ずしもローマに忠誠を誓う同盟国を守ることができないだけでなく、

ローマ連合から離脱した国を罰することができなかった


2)ローマ連合内に異なる地位の国が存在したことを反映していた





最終的には、ハンニバルの戦略は成功しない、同盟国のほとんどがローマとの同盟関係を維持することが得策であると考え、


ローマに協力した。


この戦いでの、勝敗は、軍事力によったのではなく、ローマ的な考え方とそうでない考え方との戦いであったと言えるのかもしれない。



【おまけ】

牛丼チェーンが生き残りをかけて、値引き競争をした。牛丼が250円で食べられる時代になった。




あまりにも激しい競争で各社とも体力を使い切り、消耗戦になっているのではと思ったが、実際は激しい戦いをすることで

外食全体に対する牛丼の割合が上昇し、各社とも売上が伸び、利益もそこそこだったらしい。

逆説的だが、競争相手がいることが、生き残ることにつながるということか?

ライバル企業は実は、競争しながら協力もしているということかも知れない。